6/20/2014

...BUT WITHOUT Wi-Fi, I AM NOTHING.



本を読む時間がない、ということについて。

 最近ふと思った。本を読む時間がない、と。本は買いに行くのにも読むのにも時間がかかるし、持ち運ぶのも面倒くさい。買って満足して読まない本が本棚に何冊あるのやら。反対にiPhoneはいつでもポケットにいれてどこでも欲しい情報だけにアクセスすることが出来る。超便利。テクノロジー最高。kindleだって使えちゃう。

 1991年生まれの私は小学生の時にはもうインターネットを使っていた記憶がある。パソコンだって物心がついたらもう家にあるものだった。中学生で自分のケータイを持って、次にiPodやyoutubeで音楽を聞いたり、同年代がインターネット上で経験したことは一通り全部経験しているまさにデジタルネイティブ。

 でも、ある時点でふと気付く。これでいいのか?この小さなデバイスがいつでも提供してくれる膨大な情報は、日常生活を送って行くのには十分、いや、それ以上の量だけれど、その一つ一つの軽さといったらそれはもうふわっふわのペラッペラ。誰でも投稿できて、どこでも手に入れられるからこそ、汎用性が高い代わりに信頼性も低い。そんなものに本当に生活の根本から頼りに頼りまくっている。そしてそれでも生活は続く。

 逆に本というのはそれをつくるのにも、探して手に取るまでも時間がかかるし、その何百というページ数の中を⌘Fしてキーワードだけ検索してピックアップすることなんて出来ない。読み進めて行くには内容を自分なりに咀嚼して、理解して次に進んで行く必要がある。なんて時間がかかるんだ!ましてや私は自分の読みたい内容の本は大抵英語で書かれていることが多く、言語の壁もある。インターネットなら翻訳機能を使えばなんとなく言っていることは分かるということは結構ある。



 これは本とインターネットだけの話ではなく、LINEのようなコミュニケーションツールにも当てはまる。相手が見ているという前提のもと送られた情報は何の価値もないというか、その前提はすごい誤認識であって、押し付けがましい一方通行のコミュニケーションの取り方。そんなことを言っていてもなんだかんだまた生活は続く。

 同世代はインターネットがある時代しか知らないから、それが当たり前で、その環境の中でそれなりに物知りになることだって簡単だけれど、結局本質的な知識や濃密なコミュニケーションから生まれる人間関係なんていうのはまだインターネットには不可能なんじゃないかと思う。むしろそういったものは簡単に検索すれば得られるものなのではなく、自分から探し求めて勝ち得るものなのではないのかな。それは本を読むという行為からだけでなく、書店に足を運んで本を探す、ということからはじまる気がする。

 でも、インターネットですぐに欲しいものが手に入るというぬるま湯に浸かってボケっとしていると、何に対してでも、それを得る為に回り道して時間がかかるということへの忍耐力がなくなったり、そもそもそれを得ようと一歩踏み出して行動する勇気すらいつの間にか忘れたようにどこかに消え去っていってしまう。結果的には自分が何が欲しいのかも分からないまま気がついたらもういい大人になっている人だって多いんじゃないかな。

 じゃあ何をしたらいいんだろう。そんなこと分かりきっているけど、自分の目で見たもの、その場で感じたものだけを信じていればいいんじゃないのかな。本に書いてあることだけが全てではない。誰かが言ってました。感じる力は感じた量に比例して強くなるって。

...BUT WITHOUT Wi-Fi, I AM NOTHING.

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